海抜0m~標高3776m富士山頂へ。総距離42kmの道のりを行く(報告書)
※長いし今回は感じたことが薄っぺらいし、暇な人は読んでくれたら嬉しいけど、期待しないでね。
海抜0mから行く富士登山のススメ - ゆたかの”ざっくばらん”ブログ http://blog.livedoor.jp/bm0903882/archives/24697003.html
こちらは、挑戦する人のために参考になる情報をのせた内容になってます。
もしよければ見てみてください。
【本文】
3776m。富士山。僕の名前はふじわら。過去にふじさんと呼ばれたこともある。だからと言って別に大した親近感はない。
日本で最も高い山であるこの頂に立とうとするものは多い。だが世界で最も高い山であるエベレストの頂を目指すものは少ない。別の言い方をすれば、『誰でも目指せる高み』が日本の頂点、ということだ。ちなみにエベレスト登山を試みる者の中心拠点がエベレストベースキャンプであり、そこから登山者は山頂を目指す。スタート地点と言っても過言ではないその場所でさえ、標高5000mを上回る高さに位置している。富士山頂よりもはるか上空。世界からすれば日本の最高峰など足元にも及ばぬ高さということ。通過地点に過ぎないレベルなのだ。
さて、山に臨むうえで必要な装備もまともに持っていなかった僕ら4人だったが、かき集めるように買い込んだそれを身にまとい、 8月13日(日)の16時に東京を出発。静岡方面へ向かった。標高8m、東海道本線の吉原駅についたのは、20時頃だったと思う。 南口を出て20分ほど南西に進んだところに阿字神社里宮という建物がある。田子の浦港に面するそこら一帯はほぼ海抜0m(標高0m)。ここから42㎞、標高差3776mのところに富士山頂がある。港の駐車場で花火をする地元民を背に、頼りない橙色の街灯のもとで4人は記念撮影を行った。ここから僕たちの富士登山は始まる。海抜0mから行く人で少しはにぎわっているのかと思っていたが、駅も通り抜けた住宅地も港も、都会に住む人の感覚で言えば夜中の2時くらいかと思えるほど静まり返っていた。まだ21時も回っていないというのに。
出発してからほどなくして漫画喫茶の快活クラブ富士吉原店に到着した。22時前後だったと思う。初日はここに宿泊する。たいそうなホテルに泊まることなどみじんも考えていなかった。僕たちの目的は観光じゃない。あくまでも挑戦。温泉につかって、おいしいもの食べて、ふかふかのベッドでおやすみ。そういうのじゃない。ペアのフルフラットシートに入った僕は、デオドラントボディペーパーでさっと体を拭き、リアルゴールドを一口だけ頂いてすぐ横になった。以前、漫画喫茶で一夜を明かそうとしたとき、完全個室とはいいがたい独特の空間に緊張して結局一睡もできず朝を迎えたということがあった。今回も同じようなことになるのではないかと少し心配していたが、同じ個室にもう一人いてくれたことが安心感をもたらしてくれたのか、いつの間にか眠りにつくことができていた。ちなみに僕ら以外のもう2人は、身分証を忘れたせいで個室に入らせてもらえず、結局カフェスペース的なところに居座ることを余儀なくされていた。椅子とテーブルのみ。横たわることができない彼らはテーブルに突っ伏して目をつぶるしかなかったみたいだが、大学院生時代に幾度となく同じ状況は経験したと、当の本人たちは意外にも強気だった。エアコンもないドリンクバーもないもっと劣悪な環境でそれを強いられていた彼らにとってはむしろありがたい環境だったらしく、そんなハプニングにもへっちゃらな様子だった。明日の早朝から長い道のりを行く。休息に不備があれば必ずどこかでしわ寄せがくる。万全を期して臨むことがとても大切だと思っていたからこそ、そうしたハプニングに僕はとても敏感だった。もしも立場が逆転していたとしたら、「終わったな」。そう思っていたはずだ。内心どうだったのかはわからないが、はたからみて一切動じている様子のない2人の姿に僕は非常に感心した。それに、翌日からの富士登山道中で疲労した瞬間があっても、昨晩ちゃんと眠れなかったことを言い訳にしているところを一切見聞きしなかった。準備不足があるとすぐにそのことを言い訳にしたがる僕は、しょっぱなから精神の違いを見せつけられた気分になった。苦境を乗り越えた経験値が人を強くすることを富士山からではなく、友人二人から学んだ。ここはまだ快活クラブ。
朝6時、身支度を整えた4人は宿を出発した。天気はくもり。8月の気候にしては随分と涼しかった。海抜0mから富士山頂の標高3776mまでを目指す全長約42㎞のルートは静岡県富士市が設定したもので、推奨日程は3泊4日とされている。スタート地点から12.4㎞先にある「薬草湯の宿よもぎ湯」。そこからさらに14.8㎞先にある「表富士グリーンキャンプ場」。キャンプ場から10.8㎞先の「山室 雲海荘」。これら3つの施設が富士市推奨の宿泊先だ。過去長い距離を歩いた経験があった僕には、いくら標高差が3000m以上あれど42㎞の距離に4日間もかける必要はないと思われた。お盆休みも限られているから、無駄に長く時間をかけることもできない。そうした事情から、スタート地点から27㎞先、標高約1200mの「表富士グリーンキャンプ場」で一泊し、二日目に山頂へアタックする一泊二日の日程で登頂を目指す計画を立てていた。天候に恵まれた 8月14日(月) の富士市は随分と歩きやすかった。出発してからしばらくは割合広い道を歩いた。焼肉屋さんがあったり、うなぎ屋さんがあったり、ラーメン屋さんがあったり。コンビニがあったり。東京郊外の大きめの道路と雰囲気は似ていた。たまに道路は小川をまたいだりしたけれど、随分ときれいな水が流れていた。僕たちの横をトレーニングなのかサイクリングなのか、ヘルメットと専用のウェアを身にまとったサイクリストが颯爽と走り抜けていったりもした。平地が続くのはそれほど長くはなくて、30分ほど歩いたところで緩やかな上り坂に入って行くようになった。ここからもまだまだ車の往来がある道が続いている。歩道は少し狭くなったから縦一列になって歩いた。近所の高校の陸上部なのだと思うが、随分と軽快な足取りで坂道を上から下ってきた。山道でトレーニングする姿に少し目を奪われながら彼女と僕たちはすれ違った。僕の目には4分20秒/㎞くらいのペースに見えた。なかなか良いペースだな。10分経ったくらいに今度は坂の下から彼女は反対側の歩道を駆けあがってきた。ペースはさほど変わっていない。走っている時の姿勢の美しさからして、本物の陸上部だと確信した。坂道を外れてわき道を入って行った彼女のことはそれ以降見かけることはなかった。道端に目を向けると、猫が眠たそうに畑の隅にたたずんでいる。僕たちを警戒している様子はなかった。また歩いていると今度は別の動物を見かけた。建物の3階くらいの位置の壁面に片手をかけてぶら下がっている全長3mくらいのでかいやつだった。ゴリラだ。しかも胸に「わたなべ」の文字がプリントされたタンクトップを着ていた。こちらをじっと見ている。僕たち4人の中にも「わたなべ」はいた。でかいけれども息をしていないわたなべと、比べたらサイズは小さいけれどもちゃんと息をしている「わたなべ」と、どちらが強いのかは戦わせてみるまでもない。生きている方に決まっている。
そんなこんなで僕たちはよもぎ湯まで来た。2時間半弱歩いたけれど、まだ午前9時を回っていない。もちろん僕たちはここに宿泊するつもりではなかったけれど、富士市が初日の宿泊先として推奨している施設にあっという間についてしまったのはなんとも拍子抜けな感じがした。
僕たちが目指す初日の目的地までは残り14.8㎞となった。よもぎ湯を過ぎたくらいから道路は背の高い木々に囲まれるようになってきた。山の奥へ進むほど木々はうっそうと茂るようになり、民家の姿は見えなくなった。車の往来はいつの間にかほとんどなくなり、人影も僕ら以外には見当たらない。「熊注意」や「鹿注意」の看板が目立つようになり、その看板を見たせいではないと思うのだけれど、気温も少し低くなった気がした。断続的な小雨が降り始めたのもそのあたりからだったと思う。傾斜もさらにきつくなってきた。時間の経過とともに4人の足取りは少しずつ差がつくようになってきて、僕は一番後ろからついていっていた。先頭と一番差がついたときは、大体100m以上は離れていたと思う。前の方で調子よく歩くメンバーの姿を後ろから見ているうちに、僕の心には少し曇がかかった。正直なことを言えば、「ああ、早くその足取りが重くなって歩けなくなってしまえばいいのに」と思ったりした。テントやカメラや三脚を持っている自分の肉体が一番大変で、 旅の計画を立てた自分の脳が一番大変なんだぞと心の中でぺちゃくちゃ文句を言った。誰かがそれを強いたわけではない。前を行くメンバーのせいでは決してない。自分がそれを選択したのに、それによって来た辛さを自分以外の誰かのせいにしようとしている自分がいた。苦しさに見舞われる自分を必死に擁護しようとする自分自身と、苦しさに見舞われたことは自分の選択の結果に他ならないことを言い聞かせる自分自身と、相反する自我がぶつかりあったことが心を曇らせる原因になったんだと思う。結論として正しいのは後者だったのだろうけれど、それを認めたくない自分の弱さのせいで曇っていた心はなかなか晴れてくれなかった。結局自分はまだこの程度の人間かと心の中でため息をついて、小雨に濡れた坂道を続けて歩いた。
考えが転じたのはそれからどれくらい経ってからだったか具体的に覚えていないのだけれど、それでも感覚的にはそんなに経っていなかったと思う。そもそもこの登山は競争じゃない。日が沈むまでにはあと10時間くらいはある。それまでに今日の目的地であるキャンプ場に到着すればいいのであって、急ぐ必要は一切ない。速く歩けることを後ろから見ながらねたんでいた僕は、自分があまりにも愚かだったということを改めて自覚した。目的は目的地に着くことだし山頂に至ること。“誰よりも速く”なんていう注文は誰もつけていない。なのにどうしてこんなにも人は競争し他に勝ることを無意識するんだろう。競争意識のせいで自分自身が苦しむことは、山に登らない日常においてもたくさんあった。だけどその苦しみのほとんどは必要のない苦しみだったと思う。誰が競争意識を私に植え付けたんだろう。そんなことは考えるだけ無駄だ。自分が競争意識を持つ選択を人生のどこかにおいてしたのだから自分のせいに他ならない。しかしこれ以上不要な苦しみを感じたくないのなら、今この瞬間から不必要な競争意識を捨て去るしかない。「もう自分のペースで歩こう」。そう心に決めてから随分と楽になった気がした。天気は相変わらず小雨が降り続いていたけれど、僕の心は晴れ間が出てきた感じがした。
当初の予定では17時にキャンプ場へ着く予定だった。結局僕たちは5時間も早い12時にキャンプ場へ到着した。事前に予約を済ませていたキャンプ場にはもちろん泊まるつもりではいたのだけれど、あまりにも到着が早かったからこのまま御来光を見に頂上まで行くことに予定を変更した。直前のキャンセルにはもちろんキャンセル料がかかってしまう。キャンプ場スタッフの方の計らいによって、日程変更という対処をしていただきキャンセル料は払わずに済ませることができた。受付の前にあった団欒スペースで僕たちは1時間ほど体を休ませた。持ってきたお菓子を食べたり、キャンプ場で仕入れたカップヌードルをすすったり、テーブルに突っ伏して眠ったりした。強くなりかけていた雨はそうしているうちにパっといなくなってしまって、午後には歩き始めてから一度も見ていなかった青空を見ることができた。団欒の席で僕たちを見た瞬間に0mから登ってきたことに勘づいた、40代くらいのご夫婦からの暖かい声援を受けてキャンプ場を後にしたのは、13時を少し過ぎたくらいだったとおもう。
キャンプ場を出て5kmほど歩くと、アスファルトの道路は終焉を迎えた。そこからは足場の悪い森のなかを行き、さらにそこを抜けると砂利や岩場を登るいわゆる富士山のルートに入って行くようになる。マイカー規制のために門番をしている二人の警備員のおっちゃんに、この先の気候や自然条件なんかについて指南していただいて、僕たちは身も心も改めて準備を整えた。
登山のために購入したトレッキングシューズはやっとその本領を発揮しはじめて、足場の悪さを微塵も感じさせないほど、たくましく働いてくれた。自然休養林と呼ばれる森林帯は、ゆっくり歩きながら進めばきっとすごく安らげるような一帯だったはずなのだけれど、日暮れを迎えてしまってからこの場所を歩いていてはさすがに危険だと判断されたから、僕たちはものすごいスピードでそこを切り抜けていった。腐食した木葉で埋め尽くされたふかふかした地帯をあっという間に過ぎ去ってしまって、そこでの記憶もほとんどないくらい。いつの間にか足元からはジャリジャリゴツゴツした感触が伝わってきて、傾斜もかなりきつくなっていた。目の前は木々で塞がれていて、これがどこまで続くのか全く検討もつかない。アスファルトの終焉地から5kmだけ進めば富士宮ルートの六号目に到着するはずだったのだけれど、一般道での5kmと山道の5kmはこんなに違うのかと思うほど、行けども行けども六号目には近づいている感じがしなかった。だけどあれだけ前半遅れをとっていた僕にはそれほど大変な感じはしなくて、むしろすごく辛かったと言っていたのは前半僕よりも前を歩いていた3人だった。「御殿庭(六号目までの道のり)が一番やばかった」とあとになって皆言っていたが、僕にとってはさっぱりだった。森林限界を迎えて、あたりが殺風景になってから現れた果てしない砂利坂道の方がよっぽど僕の精神には堪えた。体力の違いはさほどなかったと思うのだけれど、力を発揮しやすい環境というのはどうやら人それぞれ個別差があるらしいことがわかった。
六号目には結局17時半頃到着した。日が暮れる前にそこまでたどり着けたことにほっと胸を撫で下ろした。残すところ頂上までは3.8km。朝日を拝むために行くなら、大体10時間くらいかけて登る計算になる。ありあまる時間を十分に使って頂上を目指すことにした。富士宮ルートに合流してから登山道は人で溢れ返っていた。誰かよりも先に行こうということはもう誰も考えていない。団子になって一歩ずつ進んだ。山小屋で休み。山腹で休み。幸いにも登っている途中で重度の高山病にかかるものはいなかった。0mから登ってきたことで高度順応がうまくいったのかもしれない。風は吹いていなかった。日を跨ぐ前までは雨にも降られなかった。だが、40km近くをすでに歩いてきた僕たちの体は疲労していないはずがなかった。歩みは遅い。しかしそれでよかった。あたりはもう真っ暗で、光と言えば、登山者が放つヘッドライトの明かりや、遠くに見える山小屋の明かりだけだった。夜空はしばらく雲に覆われていて、月が僕たちを照らしてくれることはなかった。
標高3300mを越えたあたりで、瞬間わずかに空が開けた。雲間に見えた星空は、僕たちが日常生活を送っている場所から見たそれとははるかに違っていて、見たこともないような数の星々が夜空にちりばめられていた。美しい景色だと思った。しかし僕の心は、僕がそうであって欲しいと願っていたほど感動することはなかった。とても綺麗だったのに。
メンバーの一人が少し調子が悪くなったのをきっかけに、僕たちは山腹でしばし眠ることにした。標高3400mくらいだったと思う。ゴツゴツした岩場の中でもできる限り平らなところを探しブルーシートを敷いて、持ってきたありったけの服を身にまとって、キャンプ場で使用するはずだったテントを風避けに使って、4人川の字に体を寄せあって横になった。14日深夜の山頂付近の気温は2℃前後。寒くないわけがない。隣で寝ている人間の体温が暖かくてよかったと思った。
日付は変わって8月15日(火)の深夜1時30分。ポツポツと降り始めた雨に僕たちは起こされた。回復したとは言いがたいけれど、それでも気分はリフレッシュされた。山頂までの残りわずかを僕たちは登り始めた。御来光を目指して登る登山者が山頂付近で渋滞を成していた。
夜中の3時半頃、僕たちはようやく山頂に至った。しかし4人のうちの誰一人として歓声をあげるものはなかったと思う。頂上に至ることができたことに嬉しいという感覚すら抱かなかった。あとは下山するだけだという安堵感だけは心に強くあった。別に御来光なんか見なくたってかまわない。4人の内の誰一人として朝日のことを口にするものはなかった。暖かい風呂に入って、暖かい布団に潜り込みたい。僕はそれだけ考えていた。
お盆だったからというのはあるのだろうけれど、多くの人で富士山頂は埋め尽くされていた。大多数の人は山頂の適当なところに腰を下ろし、各々持ってきた風よけのビニールなんかを体に巻き付けて、あと1時間前後で昇ってくるはずの御来光を待っていた。 8月15日(火)の夜明け前、山頂の気温は相変わらず2℃前後。風も吹いている。霧雨が降っている。真冬だ。じっとしていて到底耐えられるわけがないその寒さを乗り越えて御来光を見ようなんて皆どうかしている、と僕は思った。
富士宮ルートを登ってきた僕たちだが、帰りは吉田ルートを下って富士スバルライン五号目を目指さなければならなかった。8月15日(火)10時発の新宿直通の高速バスがそちらの五号目から出ており、登ってくる途中でそれを予約したからだった。4本ある登山ルートの山頂を結ぶお鉢巡りというコースを歩き、吉田ルートの山頂へと向かった。ちなみに吉田ルートは富士山を登る大半の人が選択するコースであるがゆえに、頂上における人の数も尋常ではない。大自然を満喫するために3776mに至ったわけだが、どういうわけか、そこでもまた都会の喧騒を感じざるを得なかった。室外であるにも関わらず、山道が狭いせいで人はすし詰め状態。朝の通勤ラッシュ、満員電車のそれを都心からは最もかけ離れているはずの富士山頂で味わうことになった。人混みを掻き分けてやっと僕たちが下山ルートに入ることができた頃にはいつの間にか時刻は4時30分くらいになっていて、朝日もそろそろ地平線から顔を出すために空を薄明かるくし始めていた。
下山ルートからも朝日は見えるはずだが、あいにくその日は空が晴れてくれることはなく、朝日を拝むことはできなかった。頂上でもきっと御来光は拝めなかったのだろう。あとから下ってくる下山者が、疲労の溜まった僕たちを足早に抜き去っていった。
苦境を乗り越えて行き着いたその先にはいつも、想像を遥かに越えるような素晴らしい景色が広がっていると僕はそう思っていた。今回 の富士登山も例外じゃない。途中休憩を挟んだが、総距離42㎞、標高差3776mの道のりを約22時間で登りきることは決して容易いものではなかった。それなのに僕の心は、目的とした頂上に至ったところで一切震えることはなかった。2013年にも僕は富士山に登った。須走口五号目から山頂に至ったが、そのときも正直別に大したことないと思ったのだった。初登頂だったけれど「なんだこんなものか」としか思わなかった。そういう心がどうして浮かんでくるのかなど、当時は深く考えることなどしなかった。『誰でも目指せる。誰でも到達できる。』ということが、もしかしたら僕の心を震わさなかった原因のひとつであったのかもしれないと今になって思う。独り占めすることができるような眺めだったなら、きっと僕の心ももっと違う感覚を抱いたのかもしれない。そういうことを考えるから、尚更他の人が喜んでいる理由に疑問を抱き、深く考察するようになってしまった。
人というのは、自分の努力の方向性が間違っていたということを認めたくない生き物だ。だから合理化する。正当化する。ある地点に行き着いて、そこにあったものが想像していたような結果でなかったとしても、それでも自分なりに努力をしてきた実感があればあるほど、行き着いた先にあったものを美化しようとする。見える結果物だけじゃない。見えない自分の感情すらも美化してしまうのだ。富士山を登り終えて多くの人は「素晴らしかった。」と言うのかもしれない。だけどそれを神様の前でもそれが嘘偽りなく真実な感覚だと言い切れる人は一体そのなかにどれくらいいるのだろう。山登りだけじゃない。頑張ったけれども良い結果が出なくて、だけど頑張ったから良しとする人は一体どれくらいいるだろう。「私の人生は素晴らしい」、と自分に言い聞かせている人は一体どれくらいいるだろう。やってきたことは間違っていなかったなんて僕は思いたくない。結果が思わしくないのなら、それは努力の方向性が間違っていたことの何よりの証拠に他ならない。結果物や感情を合理化してしまえば、改善すべきところにも目を向けることはできない。本当の喜びに行き着くこともできない。進歩発展させることもできない。例えば僕が今回の富士登山で感じたことを美化してしまっていたなら、富士山よりも大きなものを見ることをできなくしてしまっていたかもしれない。なぜなら「富士山は最高だ。」と感情に蓋をしてしまうことになるのだから。多くの人はもしかしたら、こんな風に自己合理化してしまうから喜んでいたのかもしれない。そんなことを言っておきながら僕もまた自己都合で結論付けてしまった。
8時30分を過ぎて僕たちは富士スバルライン五号目に辿り着いた。静岡に来てから最も強い雨が五号目に降り注がれていた。だがもうこれ以上山道を歩くことはない。バスに揺られて、帰宅するのみだ。
「お風呂や電気、ベッドのシーツなど、下山してからの1ヵ月間は日常生活の当たり前なことにとてつもない幸せを感じるから。」
世界7大陸最高峰登頂という偉業を成し遂げた野口健さんは、自身が山に登る理由を以上のように語った。
またスポーツ選手のヒーローインタビューでよく耳にするのは、「支えてくださった皆さんのおかげです。」という言葉だ。
日常においてありふれていると思っていたものが、何かの頂点に立ってみるととてもありがたいものに感じられるから、そういう言葉が彼らから出てきたのだろう。
同じレベルで生きている僕ではないが、目的とした山頂に立ったときよりも、五号目に帰ってきたときの方が遥かに嬉しかった。毎日素晴らしい食事と素晴らしい住まいをなに不自由なく享受し、身の回りの人に支えられている日常に戻れることがこの旅で一番嬉しい出来事だったからだ。
バスは予定通りに10時に僕たちを迎えに来て、新宿へと連れていってくれた。快活クラブで身分証を忘れた二人は、家に帰ってから13時間も寝たそうだ。布団がとても気持ちよかったんだね。
おしまい。
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