新潟へのサバイバルウォーク
【新潟へのサバイバルウォーク報告】 昨年のこと。
(※メチャクチャ文章長いのでご注意ください。)
2017年7月3日(月)、僕は新潟(日本海)へ向けて旅に出た。電車でも車でもない。徒歩でだ。
千葉県市川市を出発し北上。まず日光を目指す。そして七ヵ岳、御神楽岳の北側を通るルートを選択した。総距離は337㎞。
7月8日(土)の23時半、新潟発東京行の夜行バスに乗って翌7月9日(日)の朝には自宅へ戻ってくる予定だった。そのバスに間に合わせるためには、一日およそ56㎞の道程を6日連続で歩ききらなければならない。宿泊先は決めているはずなどない。一日どれくらいいけるか検討もつかないし、何よりテントで野宿するつもりでいたからだ。
時は少し遡って6月10日(土)。僕は24時間耐久マラソンというものを友人とたったの二人で企画し、実施していた。下半身は今までに経験したことのない筋肉痛に見舞われた。上半身と下半身は途中から同じ動きをし始めた。左腕を前に出すと同時に左脚を前に出すといった具合に。上半身の反動を利用しなければ一歩前に踏み出すことさえ難しい程下半身が膠着していたからだ。日を跨いでから残り6時間が残っていた。絶望的な6時間だった。すでに18時間の死闘を繰り広げてきた自分にとって、いまだ残り6時間が残っていることは信じたくない現実だった。死にたいと思った。なぜかはわからない。辞めたいという気持ちではなかった。それでも夜の闇と冷え込みを掻き分けながら、朝日を迎えるまで必死で歩いた。何度もくじけた。しかし前に踏み出した。不眠で24時間かけて歩いた総距離は95㎞。板橋区役所前からスタートし、群馬の高崎駅までたどり着いた。Googleマップは一日で130㎞くらいいける想定をしたが、あれは万人に当てはまる計算じゃないことがわかった。
こうして一日で95㎞を徒歩で行ききった実績は、今回の挑戦を試みた僕に少しばかりの自信を植え付けていた。
24時間マラソンの経験と自信は、6日間かけていく新潟までの337㎞を軽んじさせた。「誰でもいける。」そう思っている自分がいた。現実はそう甘くないことを思い知りはじめたのは、スタートしてから10時間程経過してからのことだった。
国道4号線。日本橋三越前から本州の最北端に位置する青森まで続いている、果てしなく長いその道を通過しているときのことだった。僕がそのとき求めていたものは『自動販売機がいま目の前にある現実』、ただそれ一つだ。春日部を抜けて幸手方面に向かうあたりだっただろう。一面に広がる田園地帯。ぽつりぽつりとたっている民家。激しい轟音を立てて走り去っていく大型トラック達。ひとたび走り去ってしまえば、夏の風物詩の鈴虫の音が聞こえてくる。沈みゆく夕日に照らし出される人影は僕の影一つ。歩いている人の姿は見えなかった。たよりの夕日が沈んでしまえば、僕を照らしてくれる明かりなど、車のヘッドライトと信号機の明かりくらいだった。橙色に光る街灯はどこにもなかった。空っぽになった500MLのペットボトルのキャップを開けて口に運び、何度ひっくり返しただろう。飲むことができる水にありつけない不安と恐ろしさを人生で初めて体験した。そうしているうちに一つの看板を見つけた。最中のお土産を売っているお店の看板だ。夜8時までと書いてある。いまはまだ7時半。間に合うことを確信した。最中を購入するついでにたったの一杯の水をいただこう。その期待に胸が膨らんだ。7時45分、道の反対側に目的のお店があるのがわかった。お店の看板、そして駐車場を照らすライトは神々しく光っていた。そのライトが自動販売機の明かりかと勘違いしたほど、僕は飢え乾いていた。横断歩道を渡りいよいよお店の目の前に到着した。確かにお店の自動扉に書かれている営業時間には『午前9時~午後8時』と書かれてあり、ご丁寧に『年中無休』とまで書いてある。時刻は7時50分。閉店まであと10分ある。しかしどういうわけだろう。お店自体はライトアップされているのに、お店の中は真っ暗だ。しかも人がいる気配なんて微塵もない。お客が来ないから早々としめてしまったのだろうか。その事実を受け止めきれなかった。砂漠のど真ん中でやっと見えたオアシスが、近づいてみたら幻覚だったことに気づいたあの感覚を、身に染みてわかった気がした。これから行く道の遠くを見つめてみた。そこはかとくなく暗い感じがした。希望は持てなかった。だがそれでも、この瞬間にしか味わえない飲料水のありがたみを感じたかった。どこにも見当たらない自動販売機を求め続けた。そうしているうちにふとおもった。「ああ、戦争中の兵士たちはこんな状況に毎日のように追い込まれているのか。戦争はとてもすさまじいものだ。」「きれいな水が提供されていない国の人は、いくらそれを探し求めてもありつけない現実があるのだな。」探し、そして歩き続ければどこかには必ず水があることが約束されている僕は、あまりにも幸せな人間だと思った。
最中の店から40~50分くらい歩いた時、すこしばかり遠くに見覚えのある看板が目に映った。近づくたびにそれは確信へと変わり、幻ではないことを確認した。大きく『7』の文字が刻まれているあの看板、まさしくセブンイレブンの看板だった。まさに歓喜だった。信じられなかった。自動販売機すらなかったところに、コンビニエンスストアがある現実に興奮が冷めやらなかった。8時40分くらいだっただろう。三ツ矢サイダーが五臓六腑にしみわたった。僕はそのとき心底思った。「ここでコンビニ店員として働いてくれている人がいたおかげで、僕はこうして命を永らえさせる素晴らしい水と食事にありつけている。だからコンビニの店員さんはとても尊敬すべきで偉大で、リスペクトされるべき存在だ。」と。オーナーさんに頼んでセブンイレブンの駐車場にテントを張って一晩寝させてもらえることになった。「仕事嫌になったんか?おれも嫌になって3年前に辞めて、それでここのオーナーになったんだ。」仕事を辞めたことを受け入れてくれ、笑顔でほほ笑んでくれたオーナーさんは天使と見違えるほどだった。コンクリートの上で寝るなんて経験したことのないことだった。一日中歩いて汗はぐしょぐしょなのに、風呂にも入らず眠りにつくなんて初体験だった。眠る場所を無償で提供してくれたことは本当にありがたいことだった。しかし、それと寝心地が良いこととは全く関係がなかった。蒸し暑いテントの中、尋常じゃない堅さのコンクリートの上では眠りにつくことなど到底できなかった。眠ることができず暇になった僕は、初日に歩いた距離を確認することにした。正直確認したくはなかった。たしかにこの身がすり減る程歩いた実感はあった。しかし『歩く』という行為は、予想をはるかに下回る遅さだということだけは認識していた。疲労感と歩行距離は全くと言っていいほど釣り合わないものなのだ。予想通りだった。12時間歩き続けたところで、一日のノルマ56㎞に追いついてなどいなかった。たったの48㎞。三ツ矢サイダーと一緒に購入した900mlポカリスエットを一晩で飲み干した。セブンイレブンというオアシスに出会ったのもつかの間、とはいえそこはいまだ砂漠のど真ん中であるという現実を突きつけられた気分だった。エジプトの奴隷生活から抜け出し、シン荒野の中をモーセと共に民族の故郷を目指しひたすら歩き続けたイスラエルの民の心がはじめて理解できた気がした。現実に辟易する気持ちを、ポカリスエットが汗にして少しばかり流してくれたように感じられた。
朝4時、夜明けと共に起き上がりテントをたたんだ僕は、結局一睡もできずに二日目をスタートした。今日は日光にたどり着かなければならない。そうでなくては、計画通りにことは進まないことがわかっていた。78㎞。日光を過ぎたら、日本をまっぷたつに割る山脈を縫って行かなければならない。ペースが落ちることは容易に想像できた。だから2日目の今日はどうしても距離を稼がなくてはならなかったのだ。Googleマップの想定は16時間以上。その情報があてにならないことは重々わかっていたはずなのに、「よし、それなら夜の8時半頃には着くはずだ。」叶うはずのないその希望を胸に抱くことでしか、僕のモチベーションを維持することはできないということを無意識のうちに脳は理解していたのだと思う。疲労の抜けきらない体では実際20時間くらいかかって当然の距離だった。しかしながら冷静さに欠いた脳はむしろ僕に希望への一歩を踏み出させてくれた。あれだけ疲弊した昨日のことはあまり考えていなかった。意気揚々とした僕の気持ちは、走るという選択肢さえ僕に提示してくれた。白く霞んだ誰もいない朝の川沿いの土手を僕は小刻みに脚を運んだ。誰もいない、誰も通らないというのは朝だけではないかもしれないということを、蜘蛛の巣に絡み付かれた回数で何となくわかった。勘違いしてはいけない。今日は7月4日。昨日は日本各地で今年初の猛暑日を記録していた。夏は始まったのだ。肌寒そうなのは雰囲気だけだ。直射日光に照りつけられた川沿いの朝露が蒸発して、あたりはおそらく湿度100%。うだるようなじめっとした暑さだ。それに加えて、昨日あれだけかいた汗の一粒さえ、僕はまともに処理していない。全身の汗がくるぶしのあたりにたまり、水分を無くして半透明の塩の結晶ができていた。岩塩かと思うような粒を目視できるくらいだったのだから、尋常じゃない。全く洗っていない頭など、異次元の匂いを放っていた。想像をはるかに越えていた。何故なら、むしろフローラルな匂いを放っていたからだ。意味がわからなかった。大量に流した汗がデトックスの役目を果たしたからなのだろうか。しかし洗っていないという事実が自分を不快にさせていたことに変わりはない。暑さと処理していない汗と不眠とが重なったとき、朝の幻覚状態から解き放たれて、やっと我に返った。「限界だ。とにかく洗いたい。歯磨きをさせてほしい。」宿泊先のセブンイレブンで歯磨きすることはどうしてもできなかった。良くしてくれた素晴らしい場所だからといって、使いたい放題でいいわけがない。蜘蛛の巣に幾度となく絡まれながら、川沿いを行く僕の表情は、決して出発したときのピエロのような清々しさではなかっただろう。
しかし奇跡というものはやはりそういう限界というときに限って起こるものなのだろうか。一日にいったい何人がこの土手を通過するのだろうと思いめぐらすほど静まり返っているその道の傍らに、あずまやとひねれば綺麗な水が出てくる公園によくある蛇口が設置されていたのだ。僕以前にそこから水を出した人は、いったいいつ蛇口を捻ったのだろう。あずまやに入ろうとすればやはりそこでも蜘蛛の巣に絡まれる始末だった。そう。いままで何度も見たことがあり、同類のものは何度も使用してきた。とりわけ特別ではないもの。だがしかし泥まみれになって、洗うということがままならない状況に陥った者にとって、飲むことに差し支えがないほどの綺麗な水が蛇口から無限に出てくる、しかもそれを専有し体さえ洗おうと思えば洗えるという事実を、単なる事実としてとらえることなど到底できるはずがなかった。一言で言えば奇跡だ。商売としてこの蛇口とあずまやを成り立たせようと思ったら、決して不可能な仕業だ。なぜならユーザーが圧倒的に少ないからだ。一回の使用で100円徴収したとしても、設備投資を回収するのに、いったいどれだけの歳月を要するかという話になる。一日に片手で数えられるくらいの人の利用しか見込めないその場所で。国が、地方自治体が、なんのためにかわからないが、もしかしたら僕のような旅の放浪者の腰を休ませるためだったのか、特別な採算も見込まないでこのように過去に建ててくれたのだ。この事業に携わった人たちはあまりにも偉大だと心底思った。頭を深く下げて延々と流れ出てくる美しい水でバシャバシャと髪の毛を洗った。歯磨きもさせていただいた。信じられないくらい気持ちよかった。洗いそしてきれいにすることができるということが、こんなにも素敵なことなのかと、天を仰ぎ見た。蛇口を捻りながら、蛇口を設けてくれた人のことを考えたのは28年生きてきてはじめてだったと思う。この旅では初めての感覚をたくさん覚えた。
一日目のコンビニの件も含めて言えることだが、無意識のうちに職というものに優劣をつけている自分がいたことに気づかされた。どの職が偉くて、どの職は偉くない。かっこ良い。かっこ悪い。それは間違った考えだった。コンビニの存在も、そこで一生懸命働くコンビニ店員さんの存在も、水道事業に携わった人たちも、あの蛇口とあずまやも、そのときの僕にとっては命の恩人、命を救ってくれた大切な存在に他ならなかった。感動するしかなかった。例えばアフリカの砂漠のど真ん中に僕たちがいつも日常のごとく使っているコンビニができたなら、無償で無限に供給される蛇口ができたなら、そこに住む人々はどれほどその存在に感動するだろう。それを造ってくれた人にどれほど感謝するだろう。非常に厳しい状況に陥ったときに、すべてのものに対する見えかたは驚くほど違っていた。そしてそのような状況下で抱いた感覚こそ、肌身離さず持つべき感覚なのだと思った。なぜなら、ありふれているすべてのものが『奇跡だ』と感動できる素敵な心に他ならなかったからだ。
頭を洗うついでにサングラスも洗っていた。歩みだしてからかけてみると、なぜか曇っていた。頭を洗った指に頭皮の油分が移り、その指でサングラスを洗ったから油で曇ったのだった。日差しは南から北上している台風3号の影響で遮られていた。サングラスが曇っていてもかける必要はないのだから、サングラスをまたカチャーシャのように頭にかけた。
土手沿いの道もいよいよ終焉迎えた。大きな橋を渡る。江戸川とばかり思っていたその川だったが、橋の近くに立てられていた看板には利根川と書かれていた。地図通り来ているからどの川だろうが関係ないのだが、利根川は千葉県の北側の県境の大部分を担っている川なのだ。それを渡るという行為自体、その他多くの川を渡ることとは別のことを意味しているように感じられた。しかしそこはもう、千葉を抜けてから随分経った場所だったのだけれど。
命の水を得てから僕はまた自分の状況を見誤って、いけないことを考え出していた。「これで走っていける。この気持ちがいい瞬間にもっと距離を稼ごう!」人間全般的にいえることなのかはわからない。自分の現状を棚にあげて、感情が高ぶったからというだけの理由で、自分で自分のことを騙し、実力に見合わぬことをしようとしたのだ。両足のかかとは靴擦れを起こしている。満足な睡眠もできていない。大変重たい荷物を担いでいる。重度ではないが各所に筋肉の疲労は確実にある。そんな状態の人間が、残りまだ70㎞はゆうにあろうかという道のりに向かって、何の疑いもなく「これで走っていける!」と思っている。そんな姿をいま思い返してみるだけで、あまりに滑稽な姿勢に大変笑えてくる。体力MAXの状態で臨んだ初日の結果でさえ12時間48㎞だったという事実を真摯に受け止める気持ちがそのときの僕にはなかった。「昨日の結果は何かの間違いだ。焦らずいけば確実にいける。」そんなことを考えていた。
そんなつもりは当の本人にはなかったのだろうが、確実に焦っていた。前へ前へと急ぐ気持ちが僕の脳と体を支配していた。だからこそ、歩くことでは決してすぐには距離を稼ぐことができない現実という壁の高さに絶望感を抱かせるのに時間はかからなかった。「もう帰りたい。もうやだ。泣きたい。」頭を洗ってから1時間と少ししか経たないうちにそんな考えに支配されるようになった。
道沿いにまたセブンイレブンがあった。食料と水分を調達させていただいた。歩くかやめるか、出発してから初めてそう考えるようになった。ポツポツと降る雨が一層僕の心を曇らせた。「もういいや。」そんな気持ちになった。だがそれはいまこの瞬間に自分にやめるという選択をさせる言葉ではなかった。新潟まで行く、という当初の目的を達成できなくてもいいから、という自分を慰める言葉だったのかもしれない。不思議とまた歩く気持ちになった。もう果てしなく遠い目的地を見ることはなくなった。一歩前に踏み出した先の地面だけ眺めていた。距離にしてみればたったの50㎝くらい。近すぎる未来に一歩踏み出すことだけ考えた。一歩一歩踏み出すごとに、自分が見ていた未来を実現した。一歩踏み出すことは、ボロボロになった自分でさえ可能だった。新潟への何百万歩は考えることさえしたくない恐ろしい未来に思えたが、一歩先の未来は僕に歩く希望を与えてくれた。あたりを見回すことはもうなかった。ふと気づいてみると、長かった直線の道のりはすぐに過ぎ去り、いつのまにか曲がり角に差し掛かっているということが多くなった。『もうあと一歩』に集中することが、道のりを早く行くコツなのかもしれないと、人生の妙を悟った気分になった。
そこからの4時間は不思議と前へ脚が動き続けた。この旅のなかで最も心が落ち着いている時間だっただろうと、いまになって思う。
さて24時間マラソンのときと今回の旅とで大きく異なることがひとつある。それは荷物のことだ。1日走れば終わるマラソンのときは、ウエストポーチひとつあれば問題なかった。軽い。負担もない。下半身の疲労のみ気にかけてあげればよかった。しかし今回は1週間を要する旅だ。着替えもある。雨具もある。非常時の備えもある。しかも野宿をするのだからテントもある。重い。ひたすら重かった。重量を量ることはしなかったけれど、感覚的には15㎏~17㎏はあったと思う。長時間背負うことによって最も圧迫されたのは、僧帽筋と三角筋の前部繊維だ。痛みを通り越して感覚が麻痺してくれたらむしろ望み通りだったのだけれど、幸か不幸かそういうことにはならず、ただただ時間が経つほど痛みは増していった。耐えられなくなると、僕はバックをお腹側に移動させた。背負うのではなく、『腹負う』と言えばいいのだろうか。はたからみれば何をやっているのだろうという感じだったと思う。道路沿いで作業中のおっちゃんに案の定「何してるの?」と声をかけられたりもした。ただ当の本人である僕は、腹負うことに少しばかり心地よさを感じたりもしていた。僧帽筋や三角筋への圧迫はほぼなくなり痛みが軽減されたほか、重心が前に移動したことによって、感覚としては前に引っ張ってもらっているような感じを得たからだ。バランスは背筋の反らせ具合によって調節する感じだ。もちろん背筋に負担はかかっていたから、あとになってものすごい筋肉痛に見舞われることになったのだけれど、それでも毎日使用している背筋はすごくたくましく働いてくれて疲れをあまり感じさせなかったんだ。そうやって、バックを背中からお腹へ、お腹から背中へとローテーションさせていればなんとかやっていける感じだった。
そうしているうちに、僕はふと日本中のお母さんのことを考えるようになった。街を歩いてみると背中に赤ん坊を背負っているお母さんがいれば、お腹に赤ん坊を腹負っているお母さんがいるのを見かける。お母さんたちも背中とお腹とでローテーションしていたのだと、僕はやっと気づくことができた。一日中赤子と共にしなければいけないお母さん達の肩は、僕がバックを背負って痛くなってしまうのと同様に痛んでいるのだと考えるようになった。いや、むしろ毎日そのように背負っているのだから期間限定でバックを背負っている僕なんかとは比べものにならないくらい負担が大きいだろうと考えた。ああ、日本中の男達は自分が仕事を頑張って家庭を支えていると思っているのかもしれないけど、一日中赤子を背負っているお母さんがどれだけ大変な思いをしているのか、身をもって経験したものがそのなかにどれほどいるだろうかと考えるようになった。
人は自分が辛い目に遭っていると、他の人の辛い気持ちを考えようとはせず、自分のことばかりわかってもらいたいと思う生き物だ。だから人は、自分のことを理解してくれたり話を聞いてもらえたりする人を探し求めている。しかしそれでは、片方に負担がかかって愛の不釣り合いが起きてどちらかに辛さが押し寄せてしまう結果をもたらしてしまいかねない。
限りなく辛い状況だったが、そんな状況でも倒れている人がいたらすぐさま手を貸してあげられるような人間になりたいと思った。自分と一緒にいる人間が、どうしたら幸せになってくれるかいつでも考え実践できるような人間になりたいと思った。
地元民以外はほとんど人の往来がないような道を通り抜け、田園地帯を通り抜けた。栃木県を近くするにつれ、ひたすら一直線の農道ばかりが目立つようになった。「はて、あのバックを背負った人は誰か?」というような視線を感じながら、軽く会釈をしてすれ違っていた。得たいの知れない存在に対しては、いくら田舎のおじいちゃんおばあちゃんでも多少は警戒するらしかった。目線はあまり合わせてくれなかった。
朝の4時に出発した僕は、11時15分に道の駅思川に到着し昼御飯を食べることにした。精神的には安定していたと思う。肉うどんを食べさせていただいた。ありがたいことに、おいなりさん2つもランチサービスでつけていただいた。温かいうどんは体にも心にも染み渡った。たくさん食べて午後も頑張る気持ちだった。わずかに30分の昼休憩を経て、出発した。
そのあともひたすら農道が続いていた。歩道はない。誰がこの道を歩くものかと思って作られたような農道だった。車道しかなかった。抜け道なのか、前から後ろから車がビュンビュン通った。ただ僕はそんな車には目もくれず、ただ農道に沿って走っている用水路にばかり目をやっていた。栃木の用水路はさすがと思うほどきれいだった。わずか1メートルの幅に20~30匹はいるようなザリガニゾーンがあったり、はたまたカエルゾーンがあったりした。ビュンビュンピョンピョン生き生きしている姿に見とれながらただ歩き続けていた。
いつの間にか2時間くらいが経過していた。午後2時を過ぎる前くらいだった。ファミリーマートがあった。僕はそこに立ち寄った。コンビニには珍しく外にベンチが設けられていた。荷物を肩からおろし、ベンチに腰をかけてピルクルを飲んだ。昔宿場町という言葉があった時代、団子やさんの軒先に設けられたベンチに座って休んでいる旅人の姿に自分を重ね合わせた。店主のお婆ちゃんが「ゆっくりやすんでいき」と僕に声をかけてくれているような気がした。すぐに立ち上がって先を行くつもりでいた。しかし立ち上がれなかった。今から残り40㎞を行き日光にたどり着く勇気が僕にはなかった。急激に恐ろしさが込み上げてきた。これをあと最低でも4日間続けなければいけないことを考えてしまったときおかしくなりそうだった。「もうやめよう。」そう心に決めたときは物凄く楽な気持ちになった。時間は午後の2時15分くらいだった。
一日目48㎞。
二日目38㎞。
合計86㎞。
新潟までの道のりのわずか4分の1で僕の挑戦は幕を閉じた。
ファミリーマートの近くには奇跡的に湯楽の里という温泉施設があった。もうダメかと思うくらいに酷使した体は、最後に最高の恵みを得て栃木にさよならを告げた。
夕方、帰りの電車の窓には大粒の雨がたくさん打ち付けていた。「ああ、こんなのに見舞われていたらどうなっていたのだろう。」と思ったが、帰路につく僕にとっては大した問題ではなくなっていた。
「誰でもできる。」そう思っていた。難しいことじゃないと僕は思っていた。だけど実際は違った。死ぬほど苦しかった。こんなに苦しい思いをこれまでに経験したことがあるだろうかと思うほどだった。
そんな状況の中で、僕を取り巻く環境が奇跡だと感じられるようになった。それはとても素敵な感覚だった。苦しい過程を経たときに、目的地というものが一層美しく素敵に見えるのだとわかるようになった。乾ききったときに水というものの素晴らしさを一層感じられるのだとしみじみ感じた。目的地に着けなかったことで目標を達成はできなかったが、ただこれは失敗ではない。やってみなければわからない恐ろしさを学んだのだ。想像するだけでは得ることのできない経験値を行ったことで得ることができたことは、再度挑戦を試みようとするかもしれない僕にとって、大きな糧となるはずだと思っている。
「新潟までいってくる」と言い、応援してくれた人もたくさんいらっしゃいました。旅の途中で本当は「あともう少しです!」なんて報告をしようと思っていたのだけれど、こんな形で報告することになってしまい申し訳ないです。写真だけはカッコつけて撮ったくせに、結果はさんざんでダサすぎます(笑)
しかし温かく見守ってくださった方、本当にありがとうございました!また挑戦することがあったら、必ず報告させていただきます!
それでは皆さん、良い夏をお過ごしください☆
YUTAKA.
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