仕事ができる ≠ 人間の価値
仕事ができる ≠ 人間の価値
目の前の仕事ができる人に価値があると思っている社会全体
「あいつはダメだ。使えない。」
そういう言葉をよく耳にする。どこに行っても。人は他人のことを評価したがる。その人の位置づけ。その人の格付け。利用価値。経済価値。すなわちお金になるかどうか。評価の基準はいつもお金になるかどうかだ。その人の振る舞いを無意識のうちにお金に換算して考えている。お金に換算したときに、あまり金にならなければその人の価値は低いものとされる。そしてさげすまれる。
得意分野はもっと別のところにあるかもしれないことを考慮できているか?
しかしながらこうした評価というのはいかがなものだろうか。ある特定の仕事を前提とした場合に、その人自身が力足らずという事実がわかったとしても、その人が別の分野においてはどんなにか価値ある働きをできるのかどうかということはわからないはずである。もしかすれば、ある面においては圧倒的に他の人の能力をしのいでいる可能性は十分にありうるのである。人は見える情報を、判断基準の第一優先順位に置いてしまうことが多い。テレビの情報に右往左往される人が多いのはそのせいもあるだろう。人と人とが関わりあう場面が最も多く発生するのは、仕事の現場においてであるがゆえに、仕事上でのその人の振る舞いのみをもって、その人の価値を決定づけることとなってしまう可能性が非常に高い。
人としての価値はそもそも、仕事だけを見て決められる程簡単ではない
しかし、仕事ができる人が人間としての価値も高く、仕事ができない人が人間としての価値も低いと評価が下されるのはおかしな話である。人間としての価値はもっと崇高なものであって、仕事云々ではかりきることなど到底できないものなのである。赤ん坊は仕事など全くできないが、誰もがその命の価値を認めることが容易にできる。しかし大人になった人間に対してはそういった目で見ることができないのが矛盾である。私たちはとても慎重にならなければいけない。その人のすべてを知らないうちから、その人の人間としての価値をたかが仕事ひとつをもって勝手に決めつけてしまう可能性を誰しもがはらんでいるからだ。本来は見えないところにこそ、その人の人間としての貴重さは隠されているはずなのである。脳も心臓も、生命をつかさどっている最も重要な器官であるがゆえに、その実体が内側に隠されているのと同じようにである。人間の価値は仕事上のその人の出来栄えのみをもって勝手に決めつけていいものではないのである。
人のことを自分から見える尺度でのみ計ることは浅はかなこと
「あいつはポンコツだ」
なんていう人が私の身近にいるものだから、人間としての価値を少し考えるようになってしまった。大丈夫。仕事などできなくても人間皆尊いということは、古今東西どこにおいても普遍であり、不変の事実であるはずだろうから。
YUTAKA.
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