刺激が欲しい人の心を満たす方法 ~刺激‐認識‐感覚のプロセス~
刺激が欲しい人の心を満たす方法 ~刺激‐認識‐感覚のプロセス~
【刺激が欲しいという言葉を満たせる方法がある】
「刺激がほしい」という言葉を私はよく耳にする。そして私自身もその言葉を今までの人生で何度となく発したことがある。しかしふとしたことがきっかけとなって、刺激というものに対する深い見解を持つようになった。それは昨日のことである。きっかけとなったことについては至極プライベートな内容なのでここで大っぴらにすることはしないが、刺激についての見解は詳細に書き綴っていきたいと思っている。最終的には刺激を求めているひとの心を満たす方法にまで言及していくつもりである。少々わかりにくい表現もあるかもしれないが、そうした箇所については質問を投げかけてもらってもいいし、指摘していただいてももちろん結構である。では、本論に入っていくことにする。
【刺激‐認識‐感覚のプロセス】
早速だが、今回の論説文の結論ともいえる部分について初めに説明する。言うまでもないが、私自身が勝手に構築した見解であるから、科学的な根拠がないことは重々承知していてもらいたい。
受容器が刺激を受けてからそれに対する感覚を抱くまでには次のようなプロセスがあると私は考えた。身体の受容器に対する感触・味・におい・見た目・音などの刺激をきっかけとして、私たちの脳にはその元物のイメージが思い起こされる。イメージが主観的に判断して良いものであれば、刺激自体を受容し、さらに脳内で初めの感覚を増幅させる。しかし、主観的に判断して良くないものであれば悪い感覚を抱きそれ以上の刺激を拒絶する。
具体的な事例
上の説明ではわかりにくいとおもうでの、具体的な事例を挙げてみよう。
◆高級/一般食材食べ比べ
テレビの番組でよくあったりするのが、食べ比べをしてどちらが高級料理でどちらが一般料理かをあてるというゲームだ。日頃から良い食材を口にしているはずの芸能人たちでさえも、元物に対するイメージが曖昧な状態で、味覚という刺激だけを頼りにした場合には高級か一般かを区別することに苦戦している。料理の名前は見た目や味覚を通してわかるだろうが。そして終いには、間違って回答するというケースをよく目にする。
◆異国の地の珍料理
こちらもテレビ番組でよく目にすることだが、異国の地、特に文明的に未発達な地域にリポーターが取材に行くような場合である。地元ではポピュラーなもの、という名目で出された料理を口にして、食材は何を用いているのかわからない段階では「意外とおいしい」と言ったりする。しかしながら、その料理に用いられた食材がそのリポーターが主観的に受け付けないものであったことを知らされた瞬間に、おいしいという感覚は一瞬にして忘れ去られ、口から吐き出すことに専念してしまうというケースだ。
◆場所は温泉、お湯はいつものお湯
日本の中の有名温泉街の一角に構える大きな温泉宿にあなたが出向いたとする。そこには、大きな浴場と見晴らしの良い風情のある露天風呂が備えてある。高ぶる気持ちを胸に、露天風呂にすっと身をゆだねるようにして入ったその瞬間あなたは、「やっぱり違うなあ。良い湯だなあ」という気持ちになるだろう。いつも自分が入っている家の湯船に張ったお湯の成分と何一つ変わらないお湯だったとしても、誰がその露天風呂において『いつも入ってるお湯と同じだ!』と気づくことがあるだろうか。
受容器は刺激を区別できない。感覚はイメージに紐づく
具体例を見てわかる通り受容器は鈍感で刺激を識別できない。そして刺激はきっかけに過ぎない。刺激をきっかけとして私たちが主観的に(悪い言い方をすれば自分勝手に)イメージする元物の方に、感覚は密接に紐づいているようだ。刺激をきっかけとしてその元になっているものを想起し、「この刺激の元になっているのはこれだ!」という脳内での認識がなされた直後から『おいしい』『良い香り』『気持ち良い』といった感覚は生まれてくる。元物を想起せず刺激のみで判別できるほど肉体の受容器が優れていたならば、先ほど例にあげた高級、一般食材を食べて区別するという行為において間違いを犯すことはなかっただろう。私が伝えたいことを一言でいうと、『刺激をきっかけとして元物のイメージが認識されたときに感覚は発生する』だ。
【問:それでは「刺激がほしい」は正しいのか?】
私の見解を述べた段階で、皆さんに問いかけたいことがある。「刺激がほしい」という言葉は果たして正しいのかということだ。
“いつもと違う刺激”を身に受けることで“いつもと違う感覚”を得たい、そのような思いからその言葉を使っているように思われる。ポイントとなるのは、刺激という単語が言葉上では強調されているが、実際の目的は刺激の先にある『いつもと違う感覚』を欲しているという点だ。心の中に抱いている『違う感覚がほしい』という目的を人々が達成しようと思うならば、私が先に明らかにしたように、刺激を求めていても仕方がない。なぜならば、人の受容器というのは私たちが考えているよりも曖昧な機関で、高級だろうが一般的なものだろうが受容器だけで判別することは極めて困難、という話を通して明らかにした通りだ。刺激を発生するものに差異がないのか、受け取る受容器が鈍感すぎるのか、どちらの影響が大きいのかはわからないが、刺激自体はどこに行っても何をしてもさほどの差異はないのである。
“違う感覚を得る”ためにはどうすればよいのか?
ではどうすればよいのか。何をすれば、違う感覚を得ることができるのだろうか。その答えは、二つあると考えられる。
- 一つ目は、刺激の出どころを変えること。
- 二つ目は、刺激の出どころが今まで認識していたものとは全く別のものであったと認識を変えることだ。
私たちの生活は忙しい。毎日旅に出られる自由な生活ならば良いが、そんな時間もお金も大抵の人にはないだろう。そうであるからして、一つ目の“出どころを変える”ということは難しいのかもしれない。であるならば、実践できることは一つしかない。刺激をきっかけとして思い起こされる元物のイメージを、従来のものから新しいものへと変えることで新たな感覚を呼び起こす方法だ。人間の認識は実際はとても都合が良い。具体例で話したように、ゲテモノを食べたとしても、味が自分が食べたことがあるおいしいものに似ていたならば、それだと思って食べてしまうことができるのだから。もちろん、ゲテモノという事実を知ってしまったら話は別だけれども。
刺激に対する認識を変えようと思って変えられることは実はたくさんある。そして認識を変えるならば、新たな感覚を得ることもできるだろうし、何かの問題解決の糸口になることだってありうる。皆が自分の生活の中で実践してみれば、きっと新しいものをつかむことができるだろう。
YUTAKA.
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