人は合理性を追求したがるが、合理性の先に幸せはない。
人は合理性を追求したがるが、合理性の先に幸せはない。
【合理性を追求する社会と個人】
戦争が終焉してから、日本は産業の発展が著しく起こった。その過程の中で、コストを抑えて生産性を高めるという合理性の追求が企業にとっては、一つの大きな目的となっていたはずだ。そうした戦後の潮流はいまの時代にも続いており、合理性の追求が現代においても企業の命題となっているといっても過言ではないだろう。
食品スーパーでの出来事
私は今日、家の近くのスーパーに食材を買いに行った。すると、食材を模索している私の視界に『半額!!』と書かれた垂れ幕が飛び込んできた。反射するかのごとく私はその垂れ幕のもとへと向かい、そこにあった食材が超高級食材のステーキ肉だということを確認した。そしてそれが半額になっている事実を知った。具体的な値段を言えば、肉100g→880円のところが、肉100g→440円になっていたのだった。私は幻滅した。そして私と同じ期待を抱いていた人々も近寄って来ては、何も手にすることなくその場から去って行った。
社会は合理性を追求している。そして社会を形成している各個人もまた、当然のことながら合理性を追求しているのである。
「コストを抑えてお腹を満たす。」
「安くて質の良いものを手に入れる」
それこそが、社会に生きる大半の人が抱く食事における合理性に違いないだろう。私もまたその合理性を持つ一人なのだ。たとえ霜降りの高級肉が半額になっていたとしても、100g→440円は、近所のスーパーを訪れる人達のもつ合理性に照らし合わせてみれば、圧倒的に圏外に位置している。だから何も手にすることなくその場を立ち去って行ったのだ。肉で考えるならば、多くの人にとっては100g→50~100円が合理的と言えるラインだろうか。
コストを抑えて生産性を高めるという言葉は、個人に当てはめてみれば、安くて、かつ品物自体が良好なものが欲しいという言葉に置き換えることができるだろう。
合理性を備えた個人を満足させる、合理性を追求した小売店
食材だけではなく、購買行動全般において、消費者というのは上述した合理的基準に基づいて行動するようになった。ユニクロやダイソーが今の時代に多くの人に受け入れられるのは、そうした消費者のニーズのどストライクをついているからに他ならないと思われる。
【合理性の追求は幸せをもたらすのか】
さて合理性が社会にも各個人にも浸透し、それが私たちの行動基準になっているというのは今回の私の経験談を通してもわかっていただけたことだと思う。このような現状を前にして、私から一つ問いかけたいことがあり、それこそが今回の記事で私が最も言及したい箇所なのであるという前置きをしておこう。すなわち、
「徹底的に合理性を追求したとしても、果たしてその先に美しさはあるのか。幸せがそこにあるのか。」
ということだ。
ふたつのグラス
例えばここにふたつのグラスがあって、それぞれ水が灌いであるとしよう。
- 一つはグラスの容積めいっぱいに注がれていて、今にも水がこぼれてしまいそうなもの。
- もう一つは、グラスの大体7、8分目くらいまで適度に注がれているもの。
パッと見た瞬間の判断で構わない。”美しさ”という基準でその二つを見比べた場合には、どちらの方があなたの目には美しく見えるだろうか。あるいはあなたが高級フランス料理のウェイターだとして考えてみよう。ワイングラスがお客様の目の前にあり、そこにあなたはワインを注ごうとしている。注ぐ量に制限は設けられていないという前提があったとして、果たしてあなたはそのグラスにどれくらいの量のワインを注ぐだろうか。こぼれるくらいに?それともグラスの半分も満たさないくらいに?そしてあなたはなぜそのような行動に出たのでしょう。マクドナルドで氷の量ばかりが目立つコーラを渡されたときにあなたはちょっと不満に感じたこともあったはずなのに。
さてふたつのグラスの話に戻ろう。合理性という基準で見比べた場合には一目瞭然、なみなみに注がれ今にも雫が零れ落ちそうなグラスの方が合理的だと、言わずもがなわかる。なぜなら、グラスの容積を十分に使っていて、余すところも無駄なところもなく満たされているその姿が、グラスとしてのポテンシャルを最大限発揮しているように見受けられるからだ。しかしながら、”美しさ”という基準で見比べた場合には結果は異なってくるのではないだろうか。7,8分目まで水が注がれた方を「美しいグラス」として選択する人が多いことだろう。言葉で説明することはとても難しい。生産的でも合理的でもないそれの方が、どういうわけか美しく見えてしまうのである。
人間からしてみれば非合理的な存在、星。
もう一つの例を考えてみることにしよう。宇宙のかなたに幾万とある星々についてだ。私たちの目にはあまりにも小さく見えるあの星々のたったの一つが、今この瞬間に消えてなくなったとしよう。私たちは自分の生活のことで頭がいっぱいで、そのことには関心すらない。当然のことながらそんな事実も知らない。私たちの生活にはあまりにも関係なく、あまりにも遠く小さな存在である星。人間の立場からしてみたら、宇宙のかなたの星などあってもなくても良い存在で、合理性という基準で見たら全く非合理的な存在と位置付けられてしまうことだろう。しかしながら、そんなあってもなくても良いと思えるような星々の一つ一つが夜空に瞬いて輝くとき、それらは真っ暗な闇夜に天の川を成して、美しくまばゆい光で夜空を覆ってくれる。そしてそれを見た私たちは、言葉には到底言い表すことなどできない高揚感と、幸福感が押し寄せてくることを禁じ得ない。私たち人間の立場でいえば、あまりにも非合理的な方法や存在のはずなのに、しかしむしろその非合理的な有様に、”美しさ”、”幸せ”は宿っているように思えてならないのだ。
人間が合理性に基づいて自然を作ったなら
人間がもしも合理性に基づいて夜空を作ってしまったらどうなっただろう。人間に関係のないものはなくてもいいといって、排除していたかもしれない。人間がもしも合理性に基づいて雨を降らせたならどうなっただろう。一週間に地球に降らせなきゃいけない雨はこのくらいだから、じゃあ水曜日にそれをまとめて降らせることにしよう、ってなってたかもしれない。しかしそうやって合理性を追求しつくしたところで、そういったものに美しさは宿っていないと言えるのではないだろうか。あまりにも機械的だから。神秘的ではないから。
【“幸せ”を実現するためには】
人間一人一人が生きていく目的の一つに、『幸せになる』という目的もランクインしていることだと思う。少なくとも私の人生の目的ランキングにそれはまさしくランクインしている。生産性の追求のためではなく、幸せになるためにいまあなたが生きているのなら、戦後から受け継いできてしまった合理的でなければいけないという考えに基づいた自分の行動を、たったいまから見直さなくてはならないのではないかと私は問いかけたいのだ。
合理性は私たちの考えの奥深くまで根付いているがゆえに、その行動が合理性に基づいて出てきたものであるということをメタ認知することは極めて難しいのだが、是非ともこの記事に関心を持ってくれた人には挑戦してもらいたいと思っている。
YUTAKA.
#合理性 #美しさ #幸せ #非合理的な方が美しい ##
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