完全さの中に自由がある

完全さの中に自由がある

 友人との会話の中で、タイトルのような議題が出た。興味深い議論だったので、これについて少しばかり考えてみた。


【完全さの中に自由はある】

 僕の考えでは、完全の中に自由がないとは思っておりません。むしろ完全の中に自由はあると思っています。


【具体的な事例】

 人間の体を例にとって考えてみます。生まれつき足が一本なかったとしましょう。そうしたら足が二本ある人と比較したら行動が制限されることは目に見えています。

 生まれつき手が一本しかなかったとしましょう。そうしたら、二本あればできることも一本では難しく感じると思います。

 その他の事も、享受できるものや行えることの範囲は、不完全であるときよりも完全であるときのほうが圧倒的に広いと思われます。

 完全であることのほうが自由だ、と主張したいのは以上のような理由からです。


【現代社会における矛盾】

 しかしながら現代社会に目を向けたときに、完全な肉体を持っていても自由に生きられないひとが多く、むしろ不完全さを兼ね備えている人(※目が見えないとか、耳が聞こえないとか)のほうが、自由に生きそしてのびのびと生きているひとが多いように感じられるのは確かなことです。これは矛盾しているように感じられる事実です。僕の見解ですが、そういったことが起こるのには、心や精神的な側面が大きく関わっているように思っています。


【心が完全であるときに、真の自由を得る】

 社会は常に同調圧力で覆われています。

 成功者=⚪⚪

 失敗者=⚪⚪

 など、常に答えはひとつです。大学を卒業して大企業に就職したら、とても優秀な人間。格上の人物。そんなイメージを誰しもが持っています。こういったものは社会からの同調圧力によって産み出されたものです。

 「こうでなくてはいけない」

こうした思考は、社会からの見えない要求によって作り上げられました。そしてこのような考えが、僕たちの心を狭いところに閉じ込める要因となってしまいました。制限されるべきではない心の広がりは、社会からの要求によってとても小さなところにおさめられるようになってしまった。そして多くの人たちの心の翼はへし折れてしまったかのようです。体は完全なのに、心が完全さを失ってしまったのです。結局のところ体を動かすのは心な訳ですから、心が完全でなければ、体も完全であるがゆえの可能性を発揮できなくなっしまうのは言うまでもないことです。

 対照的に、肉体が完全でない人は、社会からの同調圧力にさらされません。なぜなら、社会はそういう人たちのことを、はなから別物として扱うからです。そして、むしろ彼らのほとんどすべての行いに社会は寛容です。

 「違っていて当然。彼らの人生を思いっきり歩ませてあげよう。」

そうした感覚を多くのひとが持っています。そのような社会環境は、不完全な肉体を持つ人たちに、大空を羽ばたけるほどの自由な心の翼を備えさせます。そして彼らは、自分の持てる限りすべてをもって最大限自由に生きていくのです。そのように生きているから結局、心の翼がおれてしまった人よりも可能性を開花させてしまう人が多いのでしょう。


【完全であるときに、自由であるの意味】

 つまり僕が言いたいことをまとめると、可能性の範囲が広いのは、間違いなく完全な肉体を持っている人でしょう。しかし、可能性を最大限引き出すことができているのは、大きな心の翼をつけた不完全な肉体の持ち主なのでしょう。

 いずれにしても、体においても心においても、完全であることがより自由に生きることを可能にしてくれると思っています。


YUTAKA.

#同調圧力 #自由 #完全さ #劇団ゆたか


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